足助の塩は、江戸時代より各地の海から運ばれてきた塩を、品質及び量を均一化する為に混ぜ合わせた合わせ塩です。
この塩を合わせる行為を「塩直し」、「塩ふみ」と呼んでいました。そして足助の塩「足助直し」として信州は塩尻まで運びました。
これが三河湾の塩も、瀬戸内海の塩も信州に運んだ塩の道です。
当店は、江戸時代からの塩問屋です。【塩の道 足助直し】は、莨屋9代目が江戸時代の塩を復元した合わせ塩です。
忠臣蔵では、吉良と赤穂のお殿様が喧嘩両成敗で無かった事で、赤穂浪士四十七士の仇打ちがあった事は有名なお話ですが、
足助の塩 足助直しは両者を合わせた仲良し塩です。その他の各地の塩もそれを応援しているかの様に融合しています。
合わせた事で両者の角が取れ、にがり分のバランスを整えた、マイルドな味に仕上がっています。
それが『おむすびが美味しくなる塩』のゆえんです。
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足助直しの"直し"は整えるという意味で、江戸時代から足助に運ばれて来る三河湾・瀬戸内海の各地の塩を整え合わせていました。そして直す作業は、船便の俵から陸路の馬用の俵7貫(26kg)にしながら、各地の塩の品質を調整し、流れ落ちるニガリ分を整えながら積み替える作業と伝えられています。 13軒の塩問屋の中でも莨屋は代表格であり、その作業場を塩座と呼んでいました。
江戸時代から明治にかけて現愛知県豊田市足助町のこの地で『足助直し』が行われました。当時の足助村は活気に満ちた町で、明治23年早々と町制が布かれ足助町となる程でした。ちなみに世界のトヨタの在るお隣の町豊田市の前身挙母村は、その2年後に町制が布かれています。明治38年専売制度が開始するまでの間、足助には13軒の塩問屋が並ぶ町を挙げての商いとして、先人たちは思いを込めて信州は塩尻まで足助の塩を運ぶ事に取り組んでいました。
平成21年6月 莨屋はかつて屈指の塩問屋であり、建物としても切妻・平入り型の両方を保有し、現在も9代目として住み続ける旧家として豊田市有形民俗文化財に指定されました。
平成22年4月 | 有形民俗文化財としての建物の修理を完成しました。地域の方々との町のアンテナショップとして店舗経営を経て、 |
平成23年5月 | 塩のお店【莨屋 塩座】としてリニューアルオープンしました。 |
平成24年2月 | 現代のこだわりのお塩として莨屋の塩『塩の道 足助直し』を発売しました。 |
私共は、9代にわたって足助の地にお世話になっています。 縁あって建物も文化財に指定して頂き、町の方々の後押しもあって塩も復興でき、大変感謝しております。かつて足助が賑やかな町であった様に、塩を通じて町への恩返しが出来ないか、元気な町を呼び起こす事が出来ないかと思っています。私は足助という町が好きです。大事な故郷です。
よく専門家は難しい理論を振りかざして町づくりを語ります。私はそんな事より、町づくりは地域の文化と歴史を守る事だと感じています。その想いは塩作りも同じ事だと思います。塩の産地は全国各地にあります。それぞれ特有の塩の良さを持っています。そこにも文化と歴史が住み続けていると感じます。『足助直し』は各地の合わせ塩です。それが足助の塩の歴史と伝統です。だからこそ特に塩を合わせる際、すべての商品を莨屋9代目として、あえて手練り作業をする事によって、各地の方々の塩への思い・歴史と伝統も手の感触で感じながら直しています。それが『足助直し』です。